// 屋上中毒 - 柏キャンパスライフ

屋上中毒 〜馬鹿と煙は屋上に上がる〜

 昨年5月に世を去った偉大なるバンドマン、忌野清志郎に「トランジスタ・ラジオ」という名曲がある。学生時代、授業をサボって、屋上で寝転がって。タバコの煙がとても青くて。思いをよせている女の子がまじめに授業を受けているとき、自分はこうして屋上でトランジスタラジオから流れてくる音楽に聴き入っていた―そんな出だしで始まる曲だ。おそらく作者の青春時代の実体験に基づいたと思われるこの曲を聴くと、僕の頭にいつも鮮明な情景が浮かんでくる。飽きても繰り返される退屈で面倒な日常からエスケープするように一人屋上に出て寝転がっている劣等生。屋上ではつかの間の自由を感じられるのだろう。そして名づけようのない感情が絡み合った青春の不安を、タバコの煙と一緒に青空に向かってふっと吐き出しているという、そんな情景だ。

 この曲が名曲になっているのは、多くの人の中に、「学生時代の屋上」という場が、ある種の青春のカタルシスを得る場だという共通認識があるからではないかと思う。余談だが「ロックミュージック」と「屋上」といえば、かのビートルズのラストライブは1969年1月30日、ロンドンのアップル社ビルの屋上で行われた。伝説のRooftop Concertだ。

 とにもかくにも、屋上の話である。僕が思う柏キャンパスの隠れた名所、それは環境棟の屋上だ。

 研究室でパソコンを睨みながら、あるいは文献と格闘しながら多くの時間を過ごしていると、目線は自然と下向きに、背筋は猫背になってくる。作業がはかどらない時にもうひと踏ん張りして発想の転換を試みるよりも、フリーズして堂々巡りの頭のまま一息つくことを選んでしまう劣等大学院生の僕の視線は、窓の外へと泳いでいく。そのときもし空が晴れていたら、僕の頭の中で「トランジスタ・ラジオ」がかかり始める。歌詞に出てくる劣等生を気取って、缶コーヒー片手に屋上へとエスケープするのだ。

 柏キャンパス環境棟のエレベーターの中には、各階を示す数字のボタンの他に、Rと書かれたボタンがある。これこそ、Rooftopの頭文字だ。これを押すだけで、屋上へと上がることができる。

 屋上から南東側を見ると、巨大なお弁当箱のような柏の葉スタジアムが鎮座しており、その向こうに柏市中心部の町並みが見える。この視点からだと、柏キャンパスはスタジアムの向かいに整然と並んだ巨大なパソコンのように見える。南西側に見えるのは、都心のビル群だろうか。この遠近感こそ、屋上の醍醐味である。つまり柏でのキャンパスライフにおける僕の挙動とは、この巨大なお弁当箱とパソコンの間を蟻んこのように行ったりきたりしているだけではないか。僕のキャンパスライフは、猥雑さが入り込む余地がないくらいにこんなにも整然と形作られた場にあるのか。そんな当たり前のことを、屋上の景色は僕の目を通じて投げかけてくるようだ。そして頭上に広がるのは何にも切り取られていない青空。柏キャンパスの空は広い。高層建築に囲まれた都心の大学では、こうはいかないだろう。屋上で腑抜けた顔で景色を眺めていると、屋上まで飛んできて羽を休めているカラスと目が合うことがある。

 「自分自身を俯瞰する視点を持っているか?」  屋上からまた軽やかに飛び去っていくカラスから、なぜかそう聞かれているような気がすることがある。そんなとき、大抵の場合僕ははっと我に帰り、空になったコーヒーの缶を持って研究室へ戻っていく。

 何のことはない。集中力が切れてきたら屋上に出て気分転換をしているという、それだけのことである。タバコを吸う人がニコチン中毒なら、僕はいわば屋上中毒だ。馬鹿と煙は高いところに上がる。だから僕は屋上に上がる。屋上で過ごす時間は1日のうちのほんの数分、あえて作る空白の時間ともいえる。道に迷ったら高い所に上がれ、ともいうではないか。もし屋上に上がるのに無理やり意味づけをするとしたら、五感を開放するため、といえるかもしれない。季節によって異なる風の匂いをかぎ、日差しを浴びて、普段は気にもとめないカラスの動きに見入る。屋上から身を乗り出しては、その高さにおののいて、すぐに身を引っ込める。こうして五感をゆだねて、硬直した頭をほぐすために、あえて屋上に上がっているのかもしれない。屋上で過ごす時間には、エクセルも、ワードも、マテリアル&メソッドも、とってつけたような自己PRも、しゃらくさい自己分析も必要ない。空は青く、雲が浮かんで、缶コーヒーは110円。それがすべてだ。


 今日も僕は、缶コーヒー片手にトランジスタ・ラジオを口ずさみながら屋上へむかう。

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小玉悠平(先端生命科学専攻 米田研究室 修士課程1年)

Last-modified: 2016-06-20 (月) 19:50:38 (516d)